僕たちの世界に溢れる物語について

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『百円の恋』/殴られるがごとく痛い生きることについて

今さらながら感は強く否めないけど、安藤さくら主演にして日本アカデミー賞主演女優賞を獲得した『百円の恋』という映画を鑑賞したのでそのことについて書きたいと思う。

 

「痛み」。それがこの映画の全体を覆うモチーフであり、まさしく「痛い」生活を送っている主人公・一子は、「痛み」によって自分を確認し、「痛み」によって再び立ち上がるのであった。そして僕が映画を通じて強く感じたのは、やはり日々生きていくということはとっても、それこそ殴られるがごとく痛いのである、というそのことだった。

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簡単なあらすじを。

 

主人公の一子は、32歳という年齢にいながら弁当屋を営む両親の家に住み着き、かといって家の手伝いをするわけでもなく自堕落で希望も絶望もない、ただただ日々を無益に消費する生活を送る典型的なダメ女。夫との離婚を期に実家に戻ってきた妹との壮絶なケンカを機に家を飛び出し、一人暮らしを始める彼女はバイトをするが、相変わらず死んだ目をし、だらしない体で煙草をふかし安いチューハイを飲む生活を送る。そんな彼女のささやかな楽しみはバイト先の百均と自宅の間にあるボクシングクラブで毎日みる一人の男だった。恋心を彼に抱く一子は、ひょんなことから同棲を始めるも数日で男は帰って来なくなってしまう。彼が他の女(自分よりかわいくて、少しギャルっ気のある)のもとに行ってしまったことを確認した一子は、その怒りをぶつける対象を、そのため込んだエネルギーを解き放つ場所が必要になる。もちろんそれは、出ていった男が適当に打ち込んでいたあのボクシングだ。そしてただ人生を浪費していた彼女の日々が、少しずつ変わっていく。

 

死んでいるも同然であった一子がどのようにして「生きている」ことを実感できるようになったのか。それはあえて自分を「痛み」に晒すことによってであった。「痛み」。それによって彼女はまさに今自分がここにいるのだ、人生を生きているのだということを強く体感する。劇中では、一子が必死にボクシングを練習➡その成果を得るために試合に出たいという風に描かれているが、意識的にせよ無意識的にせよ主人公は更なる痛みを求めて対人の戦いを求めていった、と考えてよいだろう。

 

身体的な痛みというのは自分を損なうが、それによって自分の存在を確認できるということが私たちの生活では往々にしておこる。鷲田清一という哲学者はこう言う。

「」

またサルトルの『嘔吐』の主人公・ロカンタンなんてゲロを吐く(汚くてすみません笑)その瞬間に自分の実存を感じるのだ。

自分が生きていることを実感するには「痛みを感じる」ことでなされる。何かを殴った経験のある方にはわかるだろうが、あれは控えめに言って結構痛い。たとえグローブをつけていたってかなり痛い。だからこそ自分の生きていることを確認したい一子にとって、殴っても痛い、殴られても痛いというボクシングはこの上ない自己確認装置であった。そして練習だけで終わったら意味がないから、彼女は強く勝負を求める。サンドバックを殴っているときの痛みだけでなく、更なる強い痛みを求めて。

 

クライマックスの試合で相手選手に一子はボロボロに殴られる。鼻はひん曲がり、顔はパンパンに腫れ、盛大に血を吐く。圧倒的な敗北を喫しリングの真ん中でぶっ倒れる一子。意識が朦朧とする中で、自分が何処にいるかもわからなくなる状態の中で、それでも彼女は今まで体験したことないほど感じたはずである。「自分がまさしく生きているのだ」という実感を。

 

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そして僕たちは映画を通じて再確認できる。生きているということは日々が痛みに満ちているんだと。それこそ殴られるがごとく痛みに。そしてその痛みを感じながらその都度自分という存在を確認し、そして明日に向かっていくのが人生なのである、と。

 

この作品はそんな、自分の存在がわからなくなる➡痛みによって自分を確認する➡明日に向かっていく、という日々のプロセスを巧みな比喩を用いて描き出している。ボロボロに負けた試合の後に一子は号泣しながら、あの男にこうつぶやく「勝ちたかったよ」。相変わらず「痛い」主人公。それでも自分の生きていることを強く実感した、彼女の足はすでに明日に向かって歩き始めているのだ。